私の抱える根源的不安と、物理インフラに支えられた仮想世界
2023.12.13
この文章は当サイトを開設した際に公開した日記「サイト作った!」の前半部を構成していたものです。合わせるとあまりにもひとつの記事が長くなってしまうので分割し、意味が通るように少し手直ししました。
私は文明の崩壊についてよく考えます。古代ローマ帝国やモンゴル帝国やゼネラルモーターズの落日を分析し、人類に対する普遍的なビジョンを探るような、学術的でかっこいい話ではありません。自分の生活を支えている様々なインフラやテクノロジーがちょっとしたきっかけで失われたら、自分のような虚弱で馬鹿で他人に阿ることもできない人間はすぐ死ぬだろうなと考えるのです。ヒャッハーたちがはしゃぐ世紀末世界で私が辿るのは、即刻犬の餌ルートでしょう。そう思い私は毎日少し震えています。
この心境を友人に吐露したところ「考えすぎだ」という意見を貰いました。たしかにそうなのかもしれません。
しかし私は橋を見ると呆然としてしまいます。治水された川を横切り、鉄とコンクリートで構成され、毎日数え切れないほどの自動車と人を支え、補修が加えられながら何十年もそこに存在している巨大な構造物を人が作っただなんて。自宅の蛇口から出る水を見ても毎日新鮮な驚きがあります。この星の限られた飲み水の一部が衛生を保たれ、地中に張り巡らされたパイプを通り、膨大な人口に低価格で提供されているだなんて。
人とは、と思います。個としては様々な限界や矮小さに縛られている人間たちが、こんなに複雑で、様々な不便を伴いながらもそれでもなんとか機能する世界を維持できているなんて、私の想像を絶した現実です。圧倒されると同時に自分がいかに無知で無力か身につまされます。身の回りにあるものを見回しても、私は何一つ作ることができません。鉛筆も、蒸留酒も、一枚の布も作れません。半導体を用いた電子機器などもっての外です。マッチが無ければ火も熾せない。そして私は自分が薄氷の上に立っていることを感じます。
やはり私は文明の崩壊に恐怖する感覚が考えすぎだとは思えません。この世界は精妙すぎます。私が享受している快適さは、国際情勢の悪化や政治の腐敗といった大局的な要因や、家庭などの小規模共同体が持ち込む面倒事、自身の健康状態の悪化といった個人的な要因で容易く、無造作に奪われうるものです。私の、私達の足元の薄氷には常に亀裂が広がっています。今も。
そして文明がいかに巧みに隠しおおせても、文明の薄氷の向こう側には決して消えない人間の野蛮さ、悪意、蒙昧が渦巻いています。その予感は、悲しいことですがこの世のニュースなどを見聞きするにつけ真実として迫ってきます。人類の一部が道徳体系を構築し、礼節を内面化したかに見えても、新たな種になったわけではありません。脳という臓器を含めたヒトの肉体は数万年前と変わらぬ構造で、裸のまま生まれてくるのです。私自身もそうして生まれてきたのです。
疑心に駆られ隣人を魔女だと告発した者、奴隷に焼印を押した者、ガス室へ送る人間のリストを事務的に発行した者、災害時の恐慌で移民をリンチした者と、私を隔てる歴然とした違いなど何ひとつありません。世界が、隣人が、自分が、いつかあらゆる歯止めを失い、坂を転がり落ちてしまうのではないか。
これが私の抱える不安です。
話は変わって2023年、インターネット空間、特にTwitterを代表とするSNSは動乱の渦中にありました。買収が起こったのは2022年の10月ですが、名称を筆頭とする急激な変化が起きたのは2023年の夏頃からだったと思います。それに伴い様々な仕様変更や不具合が発生し、ユーザーたちから阿鼻叫喚の声が上がりました。
印象的だったのはガンダムシリーズの『水星の魔女』最終回放映時(2023年7月2日)に大規模な不具合が発生したことです。放映時のタイムラインで、視聴者がリアルタイムな反応をすることを前提に動いていたであろうにこの仕打ち。スタッフさんたちの心境を思うと沈痛な気持ちになったのを憶えています。
イーロン・マスクがここまで反感を買っているのは、やはり権力の振りかざし方にあると思います。Xという名称がそもそもダサすぎる。マーケティングの分野にサーチャビリティという概念が導入されたのってTwitterの影響が大きいと思うのですが、その本山がサーチャビリティ皆無の名称に変更してるの、ものすごい虚しさがあります。ダサくてイタくてスベってる上司を止めることができない、部下の方々の苦労を思うと泣けてきます。
現在、インターネット空間は黎明期のような(私もその時代を実際に体感したことはないので伝聞によるイメージしか無いのですが)無辺の開拓可能領域ではなく、利潤追求を行う企業によって人々の可処分所得及び可処分時間を奪い合う、いわゆるアテンション・エコノミーとそのマネタイズの戦場と化しています。Youtubeの広告は雨後の墓石に張り付くナメクジのようにいつの間にか増えていますし、セクハラ問題を起こした後まともな法的措置を取っていないPixivは、広告の増加とAI画像生成の隆盛によって混沌の度を増しています。フェイクニュース(この言葉も何がフェイクかを巡って水掛け論が行われるせいで意味がねじれつつある気がしますが)は国際情勢の緊張とともに真実味のある虚偽の画像を伴うようになり、Googleの検索精度は著しく低下し、どこへ行っても掃き溜めのような広告リンクを掻き分けて目的の対象を探す必要があります。
「裾広ければ山高し」という言葉に適うようなネットワーク空間(共同体とは呼ぶほどの堅牢さや閉塞は無い)を維持するには莫大な資本が要求される、しかし資本を確保するために広告を打ちまくりユーザーをコントロールしようとすると、SNSとしての健全さは失われる、というのが目下SNSが直面しているジレンマであり、一時代を象徴するような問題であると私は感じます。これはテクノロジーではなく経済と社会の次元の問題であるだけに、解決までの道筋はこじれるでしょうし、何なら私が生きているうちは解決しないかもしれません。最悪もっと野蛮かつ醜悪な末路を辿る可能性も高いです。
SNS維持のジレンマはやはりTwitterに顕著に現れていると思います。TwitterというSNSが、多くの一般ユーザーによるざわめき、雑踏の喧騒のようなもので成り立っているからこそ、運営陣の思惑とユーザーの意識との乖離が目立つのでしょう。Twitterの特徴はグローバルでありながら、なおかつ雑である点です。今も昔も私がTwitter上で好ましく読むのはフォロワーの方々の"些末な"日常やそれに対する感想です。そういった別にキラキラしていない生存報告のような投稿を見ると安心します。こういった空間が長い年月をかけて出来上がっていったことは少し感動的ですらあります。風雨によって削り取られ特異な景観をなしている丘陵のようです。
もちろんTwitterにも企業アカウントは多数存在しますし、作品を発信しビジネスにつなげているアーティストや技術者の方々もいらっしゃいます。しかしそれでも依然として大多数を占めているのは、非営利的で曖昧な動機に根ざしたユーザーたち、私を含め何かしらの想念や感想を言語化その他の方法で表現して放流する場を求めたユーザーたちではないでしょうか。TwitterというSNSの投稿スタイルがもとより非常に漠然としている以上、強い目的意識に突き動かされているわけではないユーザーたちと、営利追求を目的とする企業の間に齟齬が生まれるのは必定と言えます。
人間は実のところ、かなり薄ぼんやりと生きているし、薄ぼんやりと生きることに向いている生物であると感じます。その行動(あるいは行動を起こさないこと)に確たる動機も、目的もありません。別にそれでいいのです。生命に意味は無いのですから。ふと手足を揺り動かして踊ってみたり、無意識に鼻歌を歌っていたりしているうちに死ぬというのは、かなり魅力的で、言ってしまえば善なる生き方ですらあるように思えます。
人間最大の行動原理が利潤追求であるなら、なぜ資本主義の台頭以前に学問や技術の習熟・革新が(たとえゆったりとした速度であれ)あったのでしょう? 人間の心とはもっと曖昧で、酔狂としか呼びようがない目的地不明の情熱によって動かされてきたのでは?
しかし現代社会で多くの資本を築き上げることに成功した人々は、この感覚についてほとんど考えようとはしません。それもそのはずで、大抵彼ら彼女らは現代社会に適応し――多くの場合は過剰に適応し――自身以外の在り方を一顧だにしなかった。その無反省ぶりによって莫大な財を成せたからです。イーロン・マスクはまさしく、人間の動機不明な在り方に無理解な気質ではないかと思います。
何はともあれ、Twitterの動乱はユーザーたちに「SNSの経営トップにやばい金持ちが席を占めると、プラットフォームが非民主的にめちゃくちゃになる」という経験を与えました。何年もフォローしている、顔も実名も知らない、しかしかなり好きな人とのか細い繋がりが不意に途絶する可能性を突き付けたのです。
橋や水道のような物理インフラも薄氷ですが、サーバーや回線、それをメンテしてくれる生身の人間といった物質的存在に支えられた非物質的仮想世界はなおのこと脆いものです。それを思い知らされたことがこのサイトを作った理由のひとつです。
世界中のSNSがめちゃくちゃになっても、インターネットのどこかで会いましょう。善きインターネットのあらんことを。