ケーキャンプ

『ボーはおそれている』感想

2024.03.09

【注意!】作品のネタバレが含まれています

 2月22日にアリ・アスター監督の最新作『ボーはおそれている』を観ました。私は現実と精神世界の境界が危うくなる描写がとにかく好きなので、公開を楽しみにしていました。鑑賞中は「監督、今回は割とお手柔らかじゃない?」と思うことも多く、睡眠不足だったこともあり途中の演劇シーンなどでうつらうつらしてしまったりもしたのですが、主人公ボーが帰省した後は完全に覚醒しました。
 以下は作品を1度しか観ていない現時点の感想です。

 映画が終わり館内が明るみ、照明に照らされて浮かび上がってくる座席の列を見ながら、私は微笑んでいました。なぜ微笑んでいるのかその時は分かりませんでした。左斜め前の座席から腰を上げる若い男女ふたり組のうち、男性の方が「悪趣味すぎ……」と呟いて、空になったポップコーンカップを運んでいました。私はなぜ微笑んでいたのでしょう?
 今はこう思います。私は悪夢のようなものを観るために千数百円のチケットを買いました。なぜそんな訳のわからないことをするのでしょう。私だけでなく世界中の人々が「アリ・アスター監督の最新作」を観ようと映画館に足を運んで金銭を支払っています。「アリ・アスター監督の最新作」という称号が意味するものはまさしく「悪夢のようなものを観せられる」ことに他ならないのに。
 『ボーはおそれている』を観終えた私はおそらく、「映画ってすごい」と思って笑っていたのです。物語を語る者はそれを受容する者の精神を方向付け、精密にとはいかないまでも操作します。受容者を愉快な気持ちにさせたり、やきもきさせたり、ときめかせたり、啓蒙したり、ストレスの後にカタルシスを与えたりする。アリ・アスター監督はその方向付けを、人が通常歓迎しない感情、恐怖や混乱に据えています。
 レビューサイトにおいてホラーが低めの評価を受けがちなのは、おそらくレビュー投稿者が「作品の出来の良し悪し」と「作品から感じる快不快」を混同しがちだからです。だから「巧みに視聴者を不快にするホラー」の評価は不当に低くなってしまう。これは倫理における善悪と、心身の状態の良し悪しを混同するのに似ていると思います(例えば、「嘘をついたほうが良い時もある」という言は「嘘によって自身や他者の心身への負担を免れることができる」という意味では真だが、倫理的に正しいかは疑問が残る。嘘をつくことを正当化したい人間は、この異なる地平に位置する二者を混同し、嘘をつくことが倫理的にも善であるかのように振る舞うことがある)。
 すいません、ちょっと脱線してしまいました。とにかく、アリ・アスターという人物のモチベーションの特異さと、実現のために捧げられる膨大な労力を改めて見せつけられて、私は笑顔になったのでしょう。何よりそんな特異さが、映画というたくさんの参画者を要する媒体で多くの人を巻き込んで結実し、観客を動かしていることが、人というものの奇妙なうねり全体が痛快だったのです。

 アリ・アスター監督作品は女性にも人気があると思いますが[要出典]、今作『ボーはおそれている』と前作『ミッド・サマー』に共通する要素として、性交と生殖のグロテスクさを暴く描写が挙げられます。
 性交や生殖は愛情のイメージによって美化されていますが、そこに巧拙入り乱れた欺瞞があるのは多くの人が感じていることでしょう。性交は懐柔や取引のための賄賂、ナルシシズムを満たすためのトロフィーのように用いられる側面があります。生殖は共同体存続のための労働力の確保や、将来への投資、死を恐れ永遠を錯覚するために自分のコピーを作りたいという思惑が入り込む余地が多く、その実現(かなりの割合において男性の思惑の実現)のために女性の心身に大きな負荷がかかります。
 人は言います。自分は望んで伴侶と結婚したのであって、伴侶の稼ぎに依存する家事奴隷・性奴隷として買い入れられたわけではないと。自分は仕事において"真っ当な"人物であることをアピールするために家庭を持ったのではないと。自分は心から我が子の幸せを望んでおり、自分の老後を世話させるために育てたわけではないと。なるほど。なるほど……それが真実である場合もあるでしょう。しかしそれが真実である場合は、この世界で喧伝されているほどには多くないというのが私の実感です。だからこそ欺瞞ではない愛情らしきものがあるのなら、なおのこと大切にすべきだとも思いますが。
 性交や生殖は、ヒトの動物的本能や生得的な身体構造に根ざす活動であると見做されていますが、同時に文化的・政治的に作り上げられた事象でもあります。私達は作られた愛のイメージに陰に陽に翻弄され、社会から絶え間なく囁かれる恋人や家庭の「あるべき姿」と自らを比較します。何もかも幻なのに。私があくびをしながら観ていた演劇シーンの神話めいた筋書きも、人生と通過儀礼の「あるべき姿」から外れてしまったというボーの後悔の反映かもしれません。そして「あるべき姿」の虚構性は、結婚や、特に出産というライフステージにおいて身体的・社会的に厳しい選択を迫られがちな女性にも、ボーが感じたものとは異なる形で克明に迫る機会が多いのではないでしょうか。
 鑑賞後、左斜め前の席にいた男女のうち男性のほうは「悪趣味」と言っていましたが、連れの女性が同意見であったかは定かではありません。
 愛情の虚構性の難しいところはそれが完璧な虚構ではない点です。完全に唾棄できるものも、完全に真正な価値を持つものも非常に稀で、巧妙にに縒り合わさった混淆物は至るところで私達の判断を迷わせます。クソな仕事に報われる瞬間があったり、暴力を振るってくる親となまじ笑い話など交わせた記憶があると、状況を批判したり逃亡するための意識が鈍りなおのこと苦しむ……そんなケースを挙げればきりがありません。アリ・アスター監督は私達の世界をいたずらにおぞましく描いているわけではありません。すでに世界がに何食わぬ顔で抱え込んでいるおぞましさを暴いたに過ぎないのです。この意味でも、私が『ボーはおそれている』に感じた第一印象は「痛快」の一言に尽きます。
 というわけで私はペニスモンスターが現れた時に声を殺して爆笑しました。映画館を出る前にパンフレットなどを売っているショップにペニスモンスターのグッズがないか確認したのですが、残念ながら見つかりませんでした。円盤特典とかになるのかな。期待しちゃいますね。