絵描き向けSNS「Cara」始めました
~千利休はかっこいい~
2026.05.31
AI対策に注力していることを特色として打ち出している絵描き向けSNS「Cara」に登録してみました。こちらのCaraの特色って何?というページで理念が解説されています。
私の初投稿は2026年5月8日、ゲーム『About Fishing』のファンアートでした。以来、このSNSで感じたことをいくつか書いていこうと思います。私のポートフォリオページはこちらです。かなり好印象なので、近いうちにこのサイトのトップページにもリンクアイコンを用意したいなと思っています。
Caraのここがすごい! ‐ 生身の人間と安心感
「ここにいらしたのですね」
Caraを始めて真っ先に湧き上がったのがこの感慨でした。どちらを向いても素晴らしいアートがあります。視界のノイズになる広告は一切無し!
Xはもちろん、Blueskyでも、見知らぬアカウントの、ウォーターマークの無い絵の投稿を見るたびに「これはAI生成ではないか?」と疑いの眼差しを向けるようになってどれほど経つでしょう。「こんにちは♪ 今日もいい天気ですね♪」みたいな文章と共にAI生成の“世の中ではこれが可愛いとされているらしい二次元女の子の画像”みたいなものが添付されている投稿を見て、「お前には! お前には心が無いのか!? お前は!! 心が無いかのように見えてしまうほど空虚な文しか投稿できない自分を!! 愛してやることもできず!!! そこに機械に描かせた空虚な絵を添えて空虚を埋めようとして更に空虚を拡大している自らの浅ましさに気付かぬふりを続ける気か!!!?!?」という怒りと寂しさで、幾度やり切れなくなったことでしょう。
Caraにはそれがありません。警戒せずに絵を見れるとはこんなに気分の良いものだったかという驚きと、心が洗われる感覚が登録して間もない私を圧倒しました。10年も前にはこれが当たり前のことだったというのが信じられません。
現在のBlueskyでは、画像はアップロード時に縮小されたりぼやけてしまうことがかなりあるのですが、Caraは画像主体SNSなだけあってきちんと精細に表示してくれるのも嬉しいポイントです。
私が特に好きなのは「Explore」タブの「Latest」項目です。紙にボールペンで描いたスケッチから3Dのアニメーションに至るまで、あらゆる種類の人の手からなる視覚芸術が、インプレッション数に関わらずただ時系列に沿って現れます。その豊かなこと! 熟練の技術を感じさせるベテランプロの作品もあれば、学校のノートからそのまま飛び出してきたような若々しく情熱的な作品もある。キュートなオリジナルキャラクター、肌に刻まれたタトゥー、飼っているペットの絵、アニメや漫画のファンアート、胸の痛みを吐露するような荒々しいインクの迸り、澄んだ遠い山並みと空――それは人の心の多様さの表れであり、人の心を引き付ける現実と虚構の多様さの表れに他なりません。このページを初めて見たとき涙が出ました。みんなここにいたんだね!
Caraのすごいところは、いいねをしてくれる人、シェアをしてくれる人、コメントをくれる人、フォローしてくれる人、そのほぼすべてが絵を描いているという点です。通知欄のアイコン画像をタップすると、様々な絵がポートフォリオページに並んでいます。そこには苦労の耐えない肉体を抱え、様々な作品から影響を受けながら自分も何かを作り、今まで絵を描いてきて明日からも絵を描こうと思っている生身の人間がいます。絵を描かない人からのいいねももちろん嬉しいですが、なんというか、絵を描いている人からのいいねは、やっぱり喜びがひとしおなのです……。音楽家は音楽家からの、料理人は料理人からの賛辞にやはり特別なものを感じるでしょう。
そしてAI対策を重視しているCaraに集まった人々は、ほとんど全員が昨今の無軌道な生成AIの氾濫にうんざりしています。SNS全体が広大な避難キャンプめいていて、親しさと、これは私の気のせいかもしれませんが、わずかに滲む疲労を共有しているようです。そこで交わされるインプレッションの数々は、ただの数字ではなく、すれ違いざまに目線を合わせて微笑みながらなされる会釈のように血の通ったものとして迫ってきます。
私は今のところ過去絵(ここケーキャンプに既に掲載しているもの)とらくがきの投稿ばかりしていますが、このSNSにまだまだいたいと思っています。少ないけど寄付もしようかな。
こういった連帯感と安心感の源となっているCaraのAI対策方針ですが、実のところ水も漏らさぬ堅固な防壁が築かれているとは言えません。FAQページを見ていくと、「Caraはプラットフォームにアップロードされる画像の全てに、自動的に『NoAI』のタグを付与している。このタグはAIのスクレイピング行為に対し拒絶の意思を示すものだが、悪意のある人物や企業がその意思表示を無視する可能性は依然として残ってしまう」という説明がなされています。
つまりここは禁止事項を掲げて細い杭とロープで囲ってある空き地のようなもので、それらが危険な人物をある程度退ける効果があるとしても、真に強烈な悪意を持った下劣なクズが重車両で乗り込んできたら全てが薙ぎ倒されてしまう可能性があるわけです。おい国家ァ~、早くAI規制法整備して環境負荷かけまくりの創造性の無い恥知らずな盗人どもを牽制しろよ。
Cara運営はユーザーとその制作物の保護のためにできるだけの負担は負う、と請け負ってくれてはいますが、「人手とカネが足りない」という気配は運営ブログのそこここから漂ってきます。なんとか存続してほしいものです。
Caraにおける安心感は、技術的なものというより、技術的防護が完璧ではないことを承知してなお、それを旗印として集まった人々の精神的連帯にあります。それは一見脆く思えても、私達の心から決して掻き消すことのできない埋み火のようなものです。悪意あるAIスクレーパーが決して味わうことのない喜びと敬意を私達は知っています。世界中の私達が知っているのです。
チッ、絵描きってのはどいつもこいつも宗匠面してて気に食わねぇや、仲間内で引き篭もりやがって、やってることは傷の舐め合いじゃねぇか……とお思いの、絵を描かないそこのあなた! 実は、自分で何かを描けば、あなたも今日から絵描きになることができます! レシートの裏にそのへんのボールペンで何か描いて、写真を撮って、アップロードしてみましょう。1枚では何も起こらないかもしれませんが、レシートを手に入れるたびに絵を描いて10枚も投稿すれば、何かしらの反応が得られるはずです。正直絵を長年描いてきた人間にとって、絵なんて全然描いてない、興味も無い、みたいな人が描く絵って非常に新鮮なので、多分あなたはCaraでモテます。モテてみては?
Caraにあまり無いもの
1.バズ
Caraそもそも人口があまり多くなく(2023年1月にプラットフォームが発足し、2024年初夏頃MetaのAIポリシーが侵襲的になったのを機に飛躍的に増加して6万5千人が登録した。だが、実際にアカウントを動かしているユーザー数はもっと少ないと思われる)、作品のいいねは200超えたら多い、1000超えたらかなり多い、という印象です。私は今のところ100超えた作品はありません。
また、「バズ」という語の定義の中には、「ジャンルやクラスタを超えて、異なる分野・文化圏の人に届く」という要素があると思いますが、Caraは丸ごとひとつ視覚作品制作者の集まったSNS、でかいトキワ荘みたいなものなので、遠い文化圏(絵や漫画に日常的に触れない)の人に届く可能性はほぼありません。絵を上げていない、いわゆるロム専のユーザーさんも、アニメや漫画のファンの方とか、依頼できる制作者さんを探している関連職種の方なのではないかな? と思います。
でも前述したような、いいねなどをくれる人のほぼ全員が絵を描いているという心強さと、この拡散性の低さはトレードオフの関係にあります。いわば量より質の交流がCaraの美点となっているので、私はこういったバズの不在はほとんど気になりません。
余談ですが、先日始めてエロスパムメッセっぽいものをCaraで受け取りました。煩わしさよりも「えっ、こんな獲物が少なそうな界隈に!?」という驚きが勝り、冬に弱った蚊を見るような奇妙な物悲しさがありました。
2.日本語でのコミュニケーション
Caraには世界中のアーティストが参加していますが、やはり英語のポストが多いです。しかし英語が母国語の人が多いというよりは、あらゆるルーツを持つ人々が集まる中で用いる共通言語、いわば落とし所として英語が使われているという印象です。アカウント名だけ見ても多様な響きの名前がアルファベット表記されて並んでいます。漢字やハングルやキリル文字も見かけますが、数は多くありません。
英語で交流すべき、と促されると文化帝国主義的でイヤッという気分になること無きにしもあらずですが、個人的な体感では英語を付記したほうが「英語でやり取りできる人だな」と認識してもらえて、交流のハードルが下がり、色々な人に絵を見てもらいやすくなる気がします。そもそも絵で交流するSNSなので、文法的に誤解の余地の無い厳密な文章や、詩的で流麗な文章を書く必要はありません。母国語で駄弁ったり、こだわりのオタク長文トークをしたければBluesky、日本語コミュニティから外に飛び出して世界中の絵描きに自分の絵を見てもらいたいならCara、という風に、気分と目的に合わせて発信をする拠点のひとつとして、Caraはとても良い場所だと思います。
ただ、英語が主流という環境なので、漫画を載せるのは難しいかもしれません(まだ試したことは無いですが)。少なくとも翻訳の手間がかかるのは事実です。また同様の理由で、絵と一緒に日本語の文を書いたもの(好きなキャラを描き「←ここが好きすぎる」とか書きまくる、ジ・オタク・パッション・レポート。大好き)もやや不向きでしょう。
私は英語が別段得意ではないので、今のところ「英文を添えて絵を投稿すること」と「他ユーザーがくれた英語のコメントに英語で返答すること」はできても、「自分から他ユーザーの絵に英語でコメントする」はちょっとハードルを感じてしまいます。「I like it!」とか「Beautiful.」で全然良いんですけどね。だって自分がそんなコメントもらったら超嬉しいもの。
3.リポスト(シェア)後にひとこと呟いてくれるあの超嬉しいやつ
そう、こういうのです。
最高なのはあなたさ。
私はこういうスクショを集めたフォルダ、その名も「よろこび」を作り、定期的に眺め、泣き、バックアップを取っています。本当にありがとうございます。キモがられても絶対にやめねぇ。
たぶん「明確にリプライとしてコメントを送ると、相手に『返信しなければ』という義務感を発生させてしまうが、そこまでしてもらうには及ばない。ありがたくシェアさせていただき、勝手に愛、叫ばせてもらいます」という精神がこの文化を生んだのだと思います。少なくとも私はそういう気持ちでシェア後のひと言を書いています。
Caraでは画像を伴わないテキストのみの投稿も行えますし、時に絵に関するアドバイスを求めたり質問をする投稿が多くの返信を集めて、ディスカッションのように展開することもあります。とはいえやはり画像投稿に比べてテキストのみの投稿は圧倒的に少数です。
ユーザーたちは専ら絵に直接コメントを送ります。自分からコメントを送るのはまだ及び腰な私ですが、貰ったコメントに拙い英語で返信をするのはとても楽しいです。前述したように、Caraにおいて英語は落とし所として機能しているので、ちょっと文法が怪しくても言葉選びがズレてても暖かく見守ってもらえるような気がします。
5.インプレ数の非表示
もうここまで量より質のコミュニティをやっているならばいっそ、絵のそばにくっついているコメントやシェアやいいねの数字を非表示にできる設定があったら良いのに、と感じます。だって絵を見て好きか判断するのに、他の人がどう思っているかなんて関係ないもの。今後の実装を期待して、運営さんにご意見を送ります。
AIに対する私の態度
生成AIに関して私が最も危惧しているのは、若い世代が「絵を描くことなど労力に見合わない」と考え始めることです。
子供の頃、誰もが絵を描いたことがあるでしょう。絵の上手い下手を寸評するつまらない人間に冷や水を浴びせられて、描くのをやめてしまった人が多いとしても、人生の最初期に紙とクレヨンを与えられれば、いや紙を与えられなくとも空白があれば、壁にでも地面にでも子供は何かを描くものです。そこには色が現れる驚き、線が意味を持つ面白さがあるからです。かつて何も無かった場所に、何かが現れるからです。自分が世界に働きかけ、世界が五感に応答するという自己効力感があるからです。それはリズムに合わせ身体を揺らす喜び、鼻歌を歌う喜び、浜に寄せ来る波を裸足で蹴飛ばす喜びです。この喜びはシンプルであるがゆえに長く長く続きます。飽きることは困難です。窓を開けそよ風を身体に受け止めることに飽きる人がいるでしょうか?
しかし一方で、この喜びは攻撃を受けやすいです。目下資本主義の世の中において「価値」という語の定義は、「金銭に換算した際の額の多寡」という意味に矮小化されやすいからです。周りを見渡してみれば、この「価値」の定義が穴だらけであることはすぐに分かるのですが。これが本当の「価値」の定義なら、私達を生かす食物を生産してくれる第一次産業従事者や、雨風から守ってくれる建物を立てる建築作業員、人の生活を助け命を守る介護者、ゴミを回収し衛生を保つ清掃員、子どもたちの保護と教育を担う保育士や教員などが、ここまで不遇をかこっているのはなぜでしょう?
人類学者デイヴィッド・グレーバーは、著作『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』の中で、「人や社会に貢献せず無意味であるどころか、往々にして害をもたらすにも関わらず、平均以上の収入を得ることの多い職業」に「ブルシット・ジョブ」という画期的な名称を付けました。
例えば、ある人間を偉く見せるためだけに動く護衛やドアマン、ユーザーの視界を遮って誤ったクリックやタップを誘発させる広告を打つ業者、死者や健康被害を出した企業が支払う賠償をできるだけ少なくすることに尽力する弁護士など、その実態は多岐にわたります。そして、ブルシット・ジョブは議論、合意形成、その記録といった手続きを主な業務とする官僚制に、特に蔓延りやすいです。あぁそういえば、「国民の税金を給金として支払われる身でありながら、国民の人権を侵害する法案を通し、『お子様ランチの旗を破くことは国旗毀損に当たるか』などという馬鹿げた議論に時間を費やす」というのも、極めて有害なブルシット・ジョブですね。
グレーバーは、ブルシット・ジョブの源流に「労働は苦役であり、苦役であるがゆえに崇高である」という倒錯したピューリタニズム(私はこれをマゾヒズムの一種だと思います)があると指摘します。これをこじらせて、仕事の内容と喜びを得る手段が合一したり、社会的に有意義な仕事をしている人に対して「やりがいのある行為で報酬を得ているなんてずるい!」という理不尽な怒りを覚える人も少なくありません。ブルシットな社会に苦しめられた人が、お前も苦しめと他者を引きずり降ろそうとする様はまさしく亡者ひしめく地獄絵図です。三界の火宅!
グレーバーの著作内では様々なブルシット・ジョブを例示しながら、その特徴を「無意味さや有害さを取り繕わねばならない」点であると指摘します。この「取り繕い」は、「仕事量は資源(時間と収入)をすべて使い切るまで膨張する」というパーキンソンの法則に通ずる歪んだ強迫観念です。つまり人間の活動の中には「やってる」と「やってない」とは別に「やってる感を出してる」があり、これが増え続けるのです。この「やってる感を出してる」行為は、野蛮な実力主義を標榜する新自由主義下で、「やってない」状態を容認しない他罰的な精神と相まって拡大を続けているように私は思います。別にやることがないなら潔く空の雲を眺めたり、公園を散歩したり、タコってどんな気分で生きてるんだろうとか想像すればいいのに。
しかしかく言う私も、子供の頃から自意識が過剰だったうえ、親からの「"できる子"であれ」という圧力が強かったせいで、知ったかぶりをしたりポーズを取ったりする癖がなかなか抜けず、苦しんでいる人間のひとりです。いまだに「わかりません」や「ごめんなさい」を素早く言えない自分に気付くと、情けなくて消え入りたくなります。家庭や学校、職場から「有用な人材であれ」という圧力を繰り返し受けて、喜びも手応えも感じないまま「やってる感を出す」ことに汲々としてしまう、という呪いを受けた人はきっとたくさんいるのでしょう。
そして生成AIというのは、このブルシット性=「やってる感を出してる」と、不吉なまでの負のシナジーがあります。AIの出力を頼れば、それっぽい言葉やそれっぽい絵を使って発信物を用意することができます。しかしそうやって何かを発信したとしても、その発信者と発信物の間には過程の空白が生まれます。自分と制作物の間に精神的紐帯が無いのです(自分と制作物の間に精神的紐帯を築くことこそ、何かを表すうえで最も楽しいことなのに!!)。
ですが、それっぽい発信物だけは形として出来上がるため、その空白を意識しないまま発信を続けるうちに、「自分はこの分野に明るくないからAIの助けを借りている」という感覚から、「AIを使えば簡単に達成できる作業をいちいちやってるやつは馬鹿w」という感覚に滑落していく人をしばしば見かけます。しかしこういう人は「AIを使えば簡単に達成できる作業をいちいちやってる」人がなぜそうしているのかを理解できないまま、フェイク野郎を続けます。だって本当は「この分野に明るくな」いから。そしてAIを使っているせいでいつまでも明るくなれないまま、中身の伴わない自尊心を肥大させているだけだから。
私も長いこと「芋や米を作ってくれる農家さん、インフラ整備をしてくれる技術者さんに比べたら、自分なんて虚業も満足にできないクソ虫だぜ……」というコンプレックスを抱いて生きてきましたが、いやはや、ここに来て私めなど及びもつかないほど破格の虚業クソ虫を目の当たりにするとは。おかげさまで自己肯定感が上がりますわ。
「自分にはできないことがある、という事実を引き受けること」、「できない自分を許すこと」を妨げる生成AIは、資本主義と新自由主義の寵児であると同時に、世が産み落とした饕餮(とうてつ・中国神話に登場する貪欲な魔物で、周囲の物を食い尽くすと自分自身を貪った)のような存在です。不可能なこと、不可知のものが存在するという事実を、人間はもっと敬虔に受け止めるべきだと思います。私はもういっそ、この有用性を求める世で無能を極めたいです。
これからの時代を生きる子供や若者がこれらの、「金銭に換算した際の額の多寡こそがその行為や物の価値である」という圧力と、「AIを使えば簡単に達成できる作業をいちいちやってるやつは馬鹿w」という圧力を同時にかけられると思うと、胸が痛いです。私は10代20代の頃に、前者の資本主義的価値観に晒されるだけでたまらなく苦しかったのに。
今まで述べてきた通り、これらふたつの圧力はお門違いも甚だしいです。ブルシットマゾヒストと盗人フェイク野郎の戯言です。ゆえにこのふたつを理由に「絵を描くことなど労力に見合わない」という思いが頭をよぎったとしても、そんなものは誤った前提に基づく三段論法の、破綻しきった結論のようなものです。豚にでも食わせてしまいなさい。
しかしいつだって人に絵を描かせるのは、ここに述べたようなうだうだと長い文章ではなく、人が描いた素晴らしい絵を目の当たりにする、その一瞬です。あるいはこの世界で、絵に描きたいほど激しい感情や素朴な驚きを掻き立てられる何かを見つける瞬間です。その瞬間に出会うのはほとんど、予期できない事故のようなものです。でもそういう"喜ばしい事故"に遭える確率を、少しでも増やしていきたいものですね。
てなわけで、私は若い人ほどCaraをやってくれや! と思います。美術館などで古典作品を観るのも良いですが、今、世界中に、手ずから絵を描いている人がいる、というCaraの景色にはまた違った魅力と、背中を押される力強さがあります。
私たちは千利休になれるか
私は戦国時代の茶人、千利休(=千宗易)を尊敬しています。といっても、関連書籍を読みまくったりはしておらず、ふんわり漠然とかっこいいな~と思っているばかりなのですが……。
堺を拠点とする商人として国内外の品々に触れながら、茶の湯を通して戦国武将たちと交流し、高度な政治的明敏さをも備えていたであろう利休ですが、私が彼を尊敬する理由はそういった優秀さばかりではありません。
岡倉覚三は著作『茶の本(The Book of Tea)』で、茶道の要義を「不完全なものへの崇拝(a worship of the Imperfect)」であると述べています。このあとに続く「それは人生という不可能事のなかで、何かしら可能なことを成し遂げようとする優しい企てである(as it is a tender attempt to accomplish something possible in this impossible thing we know as life)」という文章には泣かされます。
「花は盛りだけが美しいのではない」。その感覚私には親しみのある、当たり前のものです。育った国を問わず、美々しい錦よりも使い古した麻布が、宮殿よりも墓場が、鮮やかな南国の海よりも曇天の北の海が好ましいと感じる人は相当数いるはずです。時に有よりも無が好ましいと感じることも。
しかしそれでも、世のメインストリームは花の盛りを愛でるものです。花の盛りだけ見てても退屈じゃん、一輪だけ簡素な花器に入れた花にも、枯れた花にすらも趣があるよ、という侘び寂びの感覚はやはりいくらかひねくれた、屈折したものと言えるでしょう。
おそらく古今東西を見渡しても、千利休はトップクラスの審美眼を持った人間のひとりです。しかし傑出した美的感覚を持つ人物も、高度な政治的才覚を持つ人物も、少ないとはいえ常にあらゆる場所に現れるものだと思います。私が利休を特別だと感じるのは、彼が侘び寂びという、自身の屈折した美的感覚を「多くの人が共有できるはずだ」という信念のもとに広めようと行動したように見えるからです。
洗練された美的感覚を持つ人が、この世にあふれるあらゆる粗雑な人造物に辟易し、怒りを覚え、心を閉ざしてしまうのを何度も目にしました。この世には「なんでそれでいいと思ったんだよ!」と突っ込みたくなるような汚らしい配色、不可解なフォント選び、ガビガビの画像データに彩られた、神経を逆撫でするデザインがいたるところに存在します。私の美的感覚も上等とは言えず、堕落した感性で日々地を這っていますが、街を10分歩いて気が滅入るような人造物にひとつも出会わない、というのはかなり困難です。さらには表面的な"趣味の良さ"を模倣するスノビズムも商業主義の中で大手を振っていますし、近年はここにAI生成が入ってきたので醜悪さはとどまることを知りません。AI生成のゾウのイラストが自衛隊の部隊章に採用されかけた最近の事件が良い例(悪い例)です。私も含め、あれにOKを出してしまう人間がこの世に存在するという事実に落ち込んだ、という人は多いと思います。
そして制作者の心には人類に対して「人類の大半って本当は美しいものを求めていないんじゃないか……? 自分にとって美しいとは何か、かっこいいとは何か、調和して心地よいとは何か、残酷であるとは何かという大切な問いを立てずに生きている……? そんなことがあっていいのか……?? 自分は"そんな連中"相手に何かを作らなくてはいけないのか……???」という不信感と絶望が募るのです。へこむね。
でも利休は諦めなかった。暴力でのし上がり、縁起定かならぬ血筋で少々箔をつけた程度のならず者どもが跋扈する戦国時代を生き、その生涯のうちに、きっと数え切れないほど悪趣味なものを見ただろうに。彼は自身の美的感覚に独特の屈折があると理解してなお、それを自家薬籠中のものとして「僕の考えはちょっと高度すぎて皆にはわかってもらえないんだよね」みたいな"孤高"に酔うことに甘んじませんでした。人間を「センスのある人/無い人」のように乱暴に二分することなく、財産の多寡によって階級付けるでもなく、権力者のみならず市井にも自身の美意識への共感を目覚めさせ、それに「侘び寂び」と名前を与えたのです。その開かれた心(あるいは、侘び寂びの思想と矛盾するほどの強欲)が茶の湯の精神的後継者を育て、500年後を生きる私達に、彼の美意識の面影を偲ぶことを許しています。
漫画家の荒木飛呂彦先生は、著作『荒木飛呂彦の新・漫画術 悪役の作り方』内で「現代は『詐欺師』の世界」と見出しをつけ、以下のようにAIに対する危惧を表明しています。
AIによる著作権の侵害は、漫画家として対抗しなければいけない「悪」でもあります。 極端な話、AIが作った偽物が「こっちが本物だ」と受け入れられていくかもしれませんし、自衛するといっても、ここまで精巧で巧妙なフェイクが出てくると、もはや個人では太刀打ちできません。おそらく、なんらかの法律で規制するしかないでしょう。ただ、詐欺師の世界ですから、いつの間にか彼らに有利な法律ができていたりする可能性も十分あり得ます。(86-87頁)
さすがの慧眼という書きぶりで、荒木先生は「詐欺師」が法律を作る側に回る可能性について懸念を述べています。前述したように、AIと「やってる感」の負のシナジーは、ブルシット化しやすい官僚制のもとで際限なく膨張を続ける危険性があります。
現在世界各国で、非倫理的なテック企業の経済効果に目が眩み、全体主義を強化したいという誘惑に駆られた政治家が、AIを規制するどころか推進しようとしています。自覚的か否かはさておき、彼ら彼女らはAIが自分たちの「やってる感」を助けてくれるかも、という匂いに釣られているのではないかと勘ぐらずにはいられません。
そんな世界の片隅、衰退の一途を辿りながらそれでも意気地を抱えて生きている人々のいるこの国の、集合住宅の狭い自室で、私は一介の貧乏人として、ぼんやり「利休ならどうしただろうな」と考えています。利休なら行動したでしょう。
絵を描くという行為は、まさに岡倉の述べた「人生という不可能事のなかで、何かしら可能なことを成し遂げようとする優しい企て」に他なりません。せめてこの小さな茶室の中でだけは、せめてこの一片の紙の上でだけは、自由になりたい。その掻き毟るような気持ちが、人々を突き動かし、動揺させ、修練を積ませ、時に馬鹿げたことまでさせてきました。しかしこの企てへの従事は、茶室の外、紙の外で私達を苦しめようと手ぐすねを引いている憂き世の全てを、働きかけることの一切できない不可能事であると諦めるための言い訳であってはならないのだと、今は感じます。
「自分にはできないことがある、という事実を引き受けること」、「できない自分を許すこと」の先には常に、「それを受け入れた自分はこれからどうするんだ?」という問いが待っています。
私は喜びを捨てたくありません。私はまだ未熟ですが、喜びを抱き続けようと宣誓するのに巧拙の条件など必要ありません。プラットフォームを問わず、リアルかネットかも問わず、思いを同じくする人がいるなら心強いです。